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2008年03月08日

銅駝校(京都市立銅駝中学校)の思い出

ご無沙汰してます。
京つうスタッフの本郷剛子でございます。

つい先日、二十四節気の一つ『啓蟄』でしたが、
1・2月とお休みしておりました月刊「京つう」マガジンも、
春の気配を感じつつ、アナグラから這い出して、
再スタート宣言でございます。

三寒四温。
寒かった冬を乗り切って待ち望んだ春が、
一歩一歩近づいてくる嬉しい季節です。
その反面、卒業や就職・別れの季節でもありますよね。

だから、3月って嬉しいはずなのに、
何ぁ~んか、ちょっぴり寂しくて、
切ない記憶が甦る季節なんですよねぇ・・・

そこで今回、スタッフ一同、
柄に似合わず、しばしセンチメンタルな思い出に浸ってみようと、
古い記憶を振り返える企画になりました。

その名も『母校の思い出』。

さあ、スタートでございます・・・・・

*******************************



さてさて、久々のトップバッターということで、緊張しておりますが、
「母校」・・・・何ともいえない、懐かしい響きです。

やっぱり母校というと、生まれ育った地元の学校=小・中学校の思い出になりますね。


鴨川の東岸から西を臨んで、学校全景を見てみました。
左端に映っている建物は、ホテル藤田。
そのホテル藤田のビル越しに、さらに見えているビルが京都ホテルオークラ(旧京都ホテル)。
この鴨川沿いのコースは、クラブ活動で散々走りました。

京都市の場合、「小学区制」というのが導入されていたので、
それぞれの小中学校の学区に区分けされた地域ごとに、
代々受け継がれた結束が、強い組織を作っていました。
(過去形か?現在進行形か?学区によって差が激しいかもしれませんが)
自治会や消防団も学区ごとに組織されています。


私が生まれ育ったのは、
中京区の一番・東北に位置する「銅駝」という学区でした。
その銅駝学区の地域の結束の要が、
わが母校【銅駝校(京都市立銅駝中学校)】だったのです。
当時の生徒数は230~240人。
1学年2クラスの小さな中学校でした。

ところで、この「銅駝」と書いて、なんと読むのか?ということなんですけど、
これで【どうだ】と読みます。
読んだ時の、音がすごい変でしょ。
僕は慣れてるけど、
初めての人は、「なんて?」って、聞き返す人もいるんです。
「どうだ!」とか、「どうだ?」とか、
いろんなニュアンスで呼びかけてるみたいになっちゃいますが、
単純に『ドウダ』で良いのです。

これをアルファベットにすると、
何か新庄がCMに出てきた求人雑誌で見たことがある様な
スペルになるのです。

『DODA』 

イヤイヤ、そのまんまやんか!
と突っ込まれる方もいらっしゃると思いますが、
私の中学の方が、全然先ですから。
パクッてんのは向こうです。(キッパリ!)

でも、僕たちの体操着(ジャージ)の胸には、
「ディー・オー・ディー・エー」のアルファベットが、
バッチリと印字されていたのです。
昔よくあった、アイロンで熱圧着転写で、
各自が家で印字してくるようにシートを数枚渡されたました。
失敗したヤツは、いがんでたりして、
目も当てられない結果になってたり。。。

そやけど、「ワイ・エム・シー・エー」ちゃいますよ。
「ディー・オー・ディー・エー」ですよ。
細かいこと言いだすと、ほんまに発音を書いたら「DOUDA」ですけど、
それ言い出したら、まだ「DODA」でよかったって、思ったりもしますけど。

さらに、僕らの学年のジャージの色が、
"小豆色"というか"渋めの茶紫色"というか、
実は、「京つう」のTOPページのサイトカラーに非常に近い色でした。
いえ!その色まんまでした。
その小豆色に、レモンイエロー色の極太ゴシックでDODAです。
目立つけど、目だって欲しくない色調。
ヤバイ配色だったんです。

思い出というより、当時の愚痴になってしまってますが、
僕と同い歳の70数人には、
この記事読んどったら、
プッ!と吹きだすか、クスッとうけてるんと違いますか。


さて、校名の呼び名・発音ネタで長々と書いてしまいましたが、
現在の「京都市立銅駝中学校」は、どうなってるかといいますと、
統廃合で柳池中学校(現:御池中学校)と一緒になり、
我が銅駝中学校は無くなってしまいました。
あぁ~ここでBGMに、シネマパラダイスのサントラが流れてきて、
感慨にふけってしまうのです。

当時、京都市内で一等最初の統廃合校として白羽の矢が立ち、
銅駝学区では、廃校大反対の運動が起こり、
京都市と銅駝学区民との激しい闘争が繰り広げられました。
一時は、父兄が子供を学校に通わせない
「登校ボイコット」も起こったほど、激しい反対運動が起こったほどでした。

それは、銅駝校が地域の一教育機関ではなくって、
地域のシンボルであって、
地域の共有の財産としての意味合いが強かったんだなぁと、
ひしひしと感じる事件でした。
今の父兄に、そこまで熱い気持ちがあるのかな?
ふと考えます。
あの頃の親は、熱かったねぇ。
今やったら、勉強が遅れるから、そんなん登校ボイコット?論外!
そんな親が出てきて、足並み揃わず即分解!
そんな感じと違うかなぁ。


ところで、地元では学校のことを、銅駝校と呼びますが、
銅駝小でも銅駝中でもなく、「銅駝校」なのです。

それは、親父が戦前通学していた頃は、
中学校ではなく、「銅駝尋常小学校」と呼ばれていたのです。
要は戦後、新制中学ができることになって、
市内の小学校の内のいくつかが中学校になり、
銅駝校はその内の一校でした。
だから、みんなの心には、小も中も関係なかったんですね。
銅駝校は、誰がなんと言おうと、「銅駝校」やで!
てな具合に、親父なら言いそうです。

さらに、歴史をひも解くと、
銅駝校は、明治2年(1869年)、日本最初の学区制小学校に始まる
「番組小学校」の一つとして生まれました。
最初、上京下京で64校ができて、
銅駝校の前身は、「上京第三十一番組小学校」と呼ばれていました。

開校当時、設立や運営にあたっての資金は、
京都府からの下付金と町民の寄付金で賄ったそうです。
その際、子供の有無は関係なく、地元民は自分の地域のために、
費用を負担して運営していたのです。
町によっては府からの下付金を受けずに、
住民の力だけで小学校を建てたところもあったそうです。
学校としての機能以外に、
役場としての機能を持ち合わせていたので、尚更だったでしょうね。


親父レベルでは、そのことを直接は知らないでしょうが、
祖父の時代なら、
まともに「自分らが建てた」「自分らの学校や」という意識が
強かったでしょう。

前述の廃校騒動のところの話になりますが、
市制施行で京都市が生まれたのは、明治22年(1889年)。
市制によって学区制度が誕生したのが、明治25年(1892年)。
銅駝校は、そのずーっと前からやってんにゃから、
「はぁ?廃校!何抜かしとんねん!」
「ワシ等の銅駝校を、勝手に無くすやとか、云々語らんといてくれ!」
そら、そう言いたなる道理です。

そうして、銅駝尋常小学校~銅駝中学校を経て、
現在、その校舎は「京都市立銅駝美術工芸高校」となって
生き残っています。
校名も「銅駝」の2文字は残ったのです。

余談ですが、「京都市立銅駝美術工芸高校」だって、
番組小学校に負けないすごい歴史なのです。
創設は、明治13年(1880年)7月。
やはり日本最初の画学校として、
京都御苑内において開校されたのが最初で、
校名は、「京都府画学校」。太政大臣三条実美公が命名されたそうです。
その後、京都市美術工芸学校~京都市立美術高等学校~日吉ヶ丘高等学校美術工芸科を経て、
現在の銅駝の地に移ってきたのです。



これが現在の正面玄関。銅駝中学時代のそのまんま。
久々に見て懐かしかったです。


僕らの頃は、校舎の南よりのこの入口が通用口でした。
今は使っていないみたいですけど。




しかし、「銅駝」という名称も、ちょっと変わった名だと思いません?

これまた、長くなるのですが、
話は”啼くよ鶯 平安京”の「平安京」に謂れがあります。
平安京を造営する時、
中国隋唐の都であった「長安」をお手本にして造られました。
その都の碁盤目状の都市区画を”条坊制”と呼びます。
”条”は、一条二条の”条”です。
その”坊”の一エリアごとに名前が付けられていました。
桃花坊・教業坊・淳風坊などなど、17種類の名称がありました。

その一つに、左右両京の二条大路から中御門大路の坊名で
『銅駝坊』というのがあり、その名から校名を頂き、
明治8年に第二代京都府知事:槇村正直さんが
「銅駝校」と命名したと伝えられています。

そういえば、銅駝校の礼法室(学校で唯一の畳の部屋)に、
木戸孝允(桂小五郎)と、歴代の校長の写真額に並んで、
槇村正直知事の濃い髯の写真が飾られていましたっけ。

平安京の坊名は、こちら参照下さい。


この「銅駝坊」の”銅駝”は、銅の駱駝(らくだ)像を意味していて、
中国の長安城から、
西に開かれた門の傍らに駱駝の銅像が置かれていたというのです。
まさに、西方への交流の扉・シルクロードの門だったのでしょう。
そのことから、その門のある坊(区域)を「銅駝坊」と呼び、
その名を「平安京」は頂き、さらに我が「上京第三十一番組小学校」は、
『銅駝校』と名を頂いたのです。

※銅駝以外の小学校名の対批表は、町組改正と小学校をご参照下さい。


銅駝校の土地は、もともと旧京極宮別邸で、
その跡地に大阪市本町の舎密局(せいみきょく)とは独立して、
京都における舎密局が設立されました。
その舎密局というのは、簡単に言うと”理化学工業研究所”。
「せいみ=ケミカル」の訛りらしいです。
開局は明治3年(1870年)だったんですが、
この銅駝の地に局舎を構えたのが明治6年(1873年)。
やはり槇村正直知事が、明石博高の建議を採用して創設に結びつけているんです。



陶磁器、織物、染色の改良実験、七宝焼、ガラス、顔料の製造から、
日本で最初の石鹸製造、氷砂糖、ラムネ、ビールなどの飲料の製造等々、
工業化学の研究と普及に貢献したんですね。
あの島津製作所の創業者:島津源蔵も、この舎密局に出入りする内、
教育用理化学機器の製造を始め、
それが現在の島津製作所の切欠となっているんですね。





銅駝工芸高校の校舎の一部(昔の図書室だった部屋)が「銅駝会館」
(自治会館)となり、その向いに「銅駝史料館」が建てられています。

そいうえば、以前の体育館の舞台正面中央の上に、
『銅駝観』という額が掛かっていたのを思い出しました。
その額も、この史料館に保存されているんでしょうか。

当時の校長先生の話の微かな記憶なので、
間違ってるかもしれませんが、
この銅駝の地に昔、楼閣が建っていて、
その建物にその額が掛かっていたというのです。
校長先生が言うには、
「現代の君たちは、この『銅駝観』、つまり”銅駝の心”を持って頑張れ!」
みたいなメッセージだったと思うのですが、
その”観”を、”魂”とかに置き換えて話されていたんでしょう。
『銅駝魂』『銅駝スピリッツ』『銅駝精神』ということだったんです。


この長い文章を書き連ねていくうちに、
当時は、”ウザイ”なんていう単語なかったけど、
そんな気分でダルく聞いていたと思うけど、
今なら、結構すんなり聞けそうです。
またそういう話を聞きたくなってきました。
俺の<銅駝魂>が、ブルブル振動しはじめたような感じです。





ちょっと学校の周りを散策してみましょうか。

この下の画像3枚は、
夷川通を真っ直ぐに東に向かってきて、
鴨川にぶつかるところで、
何も無く突然道が切れている感じを伝えたかったんですけど。

今でこそ、「みそそぎ川」(鴨川の西岸に沿って流れる細い川)には橋が架かっているし、
鴨川には、飛び石で渡れるようになっていますが、
僕らの中学の頃は、そんなん何にも無かったですね。

よーく考えて欲しいんですけど、
鴨川で、こんな風に突然道が切れて無くなってるとこって、
そうないと思うんですけど。
そうでしょ。

それは何故でしょうか?




種を明かすと、昭和の初期までは夷川橋が架かっていたんです。
親父は橋が架かっていたというのは知っていたけど、
記憶には残ってないと言っていたから、
まだ小さかった頃の災害ということで、
昭和9年の室戸台風か、翌10年の大洪水で流出して、
その後架けられることは無かったんでしょう。

銅駝区民は、
それ以来コツコツと橋の再興を願って活動してきたんです。
でも、やっと飛び石の渡りという形で、復活が叶ったんですね。
長い道のりだったです。




これは、銅駝校のすぐ北隣りにある、
木戸孝允(桂小五郎)の邸宅。
現在は、京都市職員厚生会 「職員会館 かもがわ」の敷地内にあり、
非公開。

でも昔、時代祭・延暦時代(最後尾)に参加させていただいた時、
銅駝学区が参加担当の年で、ここ木戸邸の座敷を使って、
着替えをした覚えがあります。
もう、室内の様子は忘れてしまいましたが。


木戸孝允は、この屋敷で病気療養をしていましたが、
1877年5月26日、病状が悪化して、
明治政府と西郷の両方を案じながら、この世を去ったそうです。
享年45。
若か!短命やったんですね。

西郷を案じるとは、西南戦争のことで、
生まれたばかりの明治政府が瓦解の危機をはらんだ内乱でしたから、
それは死ぬに死ねなかったでしょう。
亡くなる数日前には、明治天皇のお見舞いも受けたのですが、
薬石の効なく亡くなったのです。

これは、「明治天皇行幸所」の碑で、
つまりお見舞いに来られたので、それを記念して建てられたのです。







めちゃくちゃ長くなり、失礼しました。
書き続けて、こんなことになってしまいました。
けど、読んだ方は、もっとしんどかったですね。
よくぞ最後までお付き合いいただきまして、ありがとうございました。

ブルブル♪銅駝魂を感じて終わります。


さあ次、誰やったっけ。ロディさん?
バトン渡します。

本郷剛子でした。






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この記事へのコメント
自分は京都の都市計画を研究していまして、銅駝校廃校のことも聞いていましたが、生々しいストーリー、さらによく調べられた歴史が読めてとても興味深いです。ありがとうございました。
Posted by 馬場 at 2008年05月23日 18:23
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